『ローマ人の物語I、II、III』ハンニバルについて

 

ローマ人の物語I、II、III』を読んで。(次巻からカエサル登場)

 

この頃日本近現代史の本ばかり読んでいて(おそらく150冊近い)、息抜きをしようと視点を変えてみました。そこで前から気になっていた『ローマ人の物語』を読み始めました。今回はこの物語で登場する個性あふれる地中海地域の人達の中から、ローマを窮地に追いやったハンニバルに注目し、彼が重視していた4つのことを書いていきます。ただハンニバルがローマに進行するまでの背景やどこでどう破ったかなどは記述しません。それは実際にローマ人の物語を読むことをお勧めします。ハンニバルがスペインからアルプスを越えてイタリア半島に進行しローマ軍を蹴散らすまでの描き方は、読んでいて高揚すると思います。

では連戦連勝のハンニバルの”才覚”を支えた4つの要因とはなんだったのでしょうか。      

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                 ハンニバル像     

1)情報の重要性を知っている。

2)敵が予期しない、意表を突く戦略展開。

3)慢心がない。

4)固定概念にとらわれない。

 

1)に関して、ハンニバルは現地人からの情報を通して地形を把握し、最も有利な戦法をとったのは勿論、さらには情報から相手のローマ指揮官の性格までを読み取ることもできたようです。それによって指揮官が挑発に乗りやすい、もしくは慎重である、という予測をたて作戦を練っていました。その結果最適な戦略を行使できました。

 

2)に関して、ローマは初戦で敗北したためイタリアの内地で防御するため、ハンニバルが次に攻略すると予測される地を定めました。ローマには街道が整備されており、これは経済活動を促進する効果がある一方で、一旦攻められれば相手の行軍速度が飛躍してしまう欠点がありました。当然ローマ側はハンニバルはわざわざ険しい道を通らず整備された街道を使用してくると予想し、作戦を展開します。しかしハンニバルはこの予測の裏をとりローマ軍を奇襲することに成功します。

 

3)に関しては、連戦連勝を重ねているのにも拘らずハンニバルは慢心がなく、常に理性的に現状分析をしていました。当然といえば当然です。ただ連戦連勝の中、慢心を抑えることは難しいかもしれません。日本人の皆さんは慢心、そして情報を軽んずることでの敗北といえば、何を想起しますか。歴史をある程度学習している人は真っ先にミッドウェー海戦というのではないでしょうか。真珠湾攻撃からプリンスオブウェールズ撃沈、シンガポール陥落、連戦連勝の日本軍に慢心があったことは有名な話です。ミッドウェーではアメリカ海軍に日本海軍がいつどこでどう現れるかまで情報を傍受されていたのにも拘らず、慢心だけでなく、情報を軽視し、空母4隻のうち3隻も失うという燦々たる敗北。大日本帝国が崩壊していく狼煙となりました。

 

4)に関して、当時地中海地域の戦争は重装歩兵がまっすぐ突進し、先に消耗した側が敗北するという戦い方でした。この固定概念をハンニバルは打ち破ります。機動力のある騎馬を駆使し左右に回り、重装歩兵のまっすぐな攻撃を撃破しました。ローマの戦争の常識では太刀打ちできなくなりました。ちなみに、日本で同様なことを初めてやったのが、源義経です。司馬遼太郎さんの『この国のかたち』にあった記憶があります。

 

 

最後に 

日本のくせにギリシャ人のハンニバルに惚れ惚れしている自分が癪に障りました笑。僕は「海外留学して初めて日本の素晴らしさがわかった」「アメリカは凄い」という輩が大嫌いなのと、もともと歴史に興味が湧いたのが戦国時代だったので余計癪に障りました。自分もまだまだですね。日本の戦国武将がどのような戦略をとっていたかまでは読んだことはなかったので、いつか日本の武将の革新的なところも読んでみたいですね。

『日本国民よ、自信を持て』吉田茂、回想10年を読んで。

『日本国民よ、自信を持て』吉田茂、回想10年を読んで。

吉田茂は親英米派の外交官として長きに渡り貢献し、終戦後も日本の復興の土台を作った人物として有名です。戦前から戦後を見てき、理想主義も現実主義もどのような結果になるかをその目で見てきた人とも言えます。またやはり諸外国の要人と会ってきていることからか、思想に偏りがないと感じました。例えば日本国憲法に関しても必ずしも「押し付け憲法」という考え方はしていないし、英米批判もする。吉田茂の印象は、国際感覚(ディプロマティックポリシー)を最優先に、国益のためには感情論を一切挟まず日本の復興のために必要なことを合理的に考え、それを実行した人物でした。現代でも大変参考になることが多々あるので、本文の引用と思ったことを書いていこうと思います。

 

<空疎なる中立主義 集団的自衛権の必要性

—引用開始—

国家防衛の問題に関連していわゆる「中立主義」なるものが、いかに観念的にして、空疎なるものであるかは改めて説くまでもない。最近東欧のソ連衛星国に起こった事件を見れば強大な武力の前には、一国の独立なるものがいかに儚きものか如実に表している。中立を守るに足るだけの武力を擁し、かつ守り得る地理的位置にあるならば、また自ずから話は別だが、日本はそうした立場にいない。日米安全保障条約を基幹とする集団的防衛大勢の他には日本を守る道はないと言って良い。

ー引用終了ー

<思ったこと>

最近話題になった集団的自衛権にまさしく直結する話。私は知覧の特攻平和記念館に行った際、ゼロ戦の整備をし特攻隊員と関わっていた方とお話したことがあります。その方が集団的自衛権に関しておっしゃっていたことは「敵が攻めてきたときに平和憲法を掲げたところでそれは止まるのか。最低限の守りだけでは抑止力にならない。触ったら火傷すると思わせるくらいの攻撃力を持って初めて抑止力になる。日本は科学の分野で優れているからその技術を軍事面にも活かしていくべきだ」と。戦争を体験した方からの言葉は染み入るものがあります。

憲法解釈は国の暴走を抑止する上でとても大事なことですが、それにのみこだわって本質がなんであるか、つまり何故安保法制を解釈変更しなければならないのかを見極められないのは、19世紀の清や朝鮮と全く変わらないように感じます。というのも当時の清や朝鮮は近代化の流れの本質、つまり富国強兵をしなければ植民地化されるという弱肉強食の世界を読めませんでした。(厳密には内政改革はありましたが、結果的にはという話です)中華思想のもと朱子学的な文言にばかりこだわって近代化もままならず、結果は見ての通りです。現在軍事力を高める中国が存在するのにも拘らず、日米安全保障条約の廃棄、平和的に永久中立などで対応できるわけがないと思います。攻めてきたらやるしかない。ただ中国も戦争する気は無いだろうから、より強い抑止力、つまり集団的自衛権は戦争を抑止する効果があると思います。ある中国人の教授と話した際、「集団的自衛権の制定で日本は平和主義という理念を捨てた」と言っていたが、理想はあっていいが、理想を貫くにもある程度の力は必要だろうと感じます。

 

マッカーサーの「日本人は12歳である」発言の真相>

ー以下引用ー

「日本人は12歳である」という言葉をマッカーサーがアメリカに帰ったときに言ったことが当時の新聞社に報道され、日本人の知能を軽蔑したかのような論調のように報道されたが、それは誤解である。マッカーサーは「自由主義や民主主義政治というような点では日本人はまだ若いけれど」という意味であって「古い独自の文化と優秀な素質を持っているから西洋風の文物制度の上でも日本人の将来の発展はすこぶる有望である」ということを強調した。

ー引用終了ー

<思ったこと>

マッカーサーへの誤解をとく上で引用してみました。回想10年では、マッカーサーに近い存在であった吉田茂が彼の人柄を紹介しています。例えば日本との関係では、天皇陛下を尊敬していたことや、初めてマッカーサーが来日したのは日露戦争時で、軍人であった父と共に旅順へ行き、東郷平八郎乃木希典と対面し彼らの高潔さに感銘を受けたことなどです。日本との親交の深さが伺えます。実際に天皇制を維持するために対日理事会へ働きかけたり、天皇制廃止やソ連の北海道半分割譲の要求など連合国の要求を抑えたりしていたのも事実で、現在の日本があるのは彼の尽力が一部あったからと言えます。物事にはバランスがあり、駆け引きがある。押し付け憲法論やWGIP(日本を二度と立ち上がらせないようにしようと偏向情報を日本に植え付けたプログラム)など一方的な右寄りの人がよくいうことも、マッカーサーの人となりを知れば、少し中立的な考えに動くのではないかと思います。

 

押し付け憲法論の真意>

ー引用開始ー

当時(戦後すぐ)の政府首脳はまず少しでも早く日本の独立を勝ち取ることが急務と考え、なるべく内外に日本は平和主義、民主主義国家であることを表明せねばならなかった。しかもマッカーサーとしては天皇とじかに話し、人格に感銘を受けるとともに日本から天皇の地位や皇室を残す方向に考えが向いていた。けれども対日理事会はオーストラリアやソ連が日本の将来の報復を恐れて平和主義の文言を入れることにこだわった。この互いの駆け引きは人間の間で行われたということも知って置くべきだ。つまり、国際感覚が働いていたというのが真実である。

ー引用終了ー

<思ったこと>

吉田茂曰く、必ずしも押し付けではなく、アメリカ側も日本の要求に耳を傾けながら憲法を制定していったことが真実らしいです。当時の独立を最優先するためには内外に平和主義、民主主義を尊重する姿勢をなるべく早くみせねばならなかった日本。これは右寄りの人が言う「日本が二度と動けないようにするためにアメリカが押し付けた」と言うような論調を一部一蹴するのではないでしょうか。歴史を動かすのは人と人です。その駆け引きの中で、日本側とアメリカ側が互いの思惑を持って最善のことを尽くした結果が日本国憲法ならば、その努力を尊重したいと思います。ただし私は、時代に適さない古い条項は徹底的に改憲すべきで、憲法の文言にふれてはいけないという護憲派などは論外だと思います。国を滅ぼすだけです。

 

 

最後に吉田茂の回想10年の最後に書かれていることを引用して終わりにしたいと思います。

ー引用開始ー

「日本国民よ、自信を持て」

あらゆる改革において伝統や文化を忘れないこと、精神を没却しないこと。日本が一部野心的政治家軍人などに誤られて4隣の諸国に危害を加え自らも史上未曾有の敗戦を喫したことが大きな失敗であり、罪悪であったことは間違いないが、そうだからといってここに至った歴史のすべてを否定し、国家社会の根本を覆すことが妥当であるとは思えない。

ー引用終了ー

 

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歴史の国、薩摩

先日薩摩へ一人旅してきました。

薩摩で出会った人や経験を伝える為、そして忘れない為にこの記事を書こうと思います。薩摩に関する記事はいくつかに分け、今回は歴史、次回は薩摩人に焦点を当てます。

 

では、<島津氏の起源><薩摩の国が歴史に残した役割>に関する考察です。

 

<島津氏の起源>

島津氏の領地は最初に平季基が開墾し藤原頼道に寄進した島津荘が基となっています。(寄進地荘園)島津氏はもともと源頼朝に仕える東武で、頼朝によって現在の薩摩の地を与えられ、以降委任統治を進めていきました。しかし元寇という外圧に対処するため、島津氏自身が現地の薩摩を統治したのが島津氏発展の起源です。戦国時代になり、島津の宗家と分家が相争うようになりました。そんな中、島津忠良(日新斎)が頭角を現し、島津家を統一。貴久の時代には所領を大隅に広げ、義久、義弘の時代には日向はもちろん、九州を席巻するようになりました。 

簡潔にまとめると薩摩土台はこのように形成されていったようです。

  

<薩摩の歴史に対する影響力>

ここでは主に司馬遼太郎さん著の「この国のかたち」を引用しつつ、自分なりに考えてみます。(ほぼ司馬さんの知識からきますが…)

戦国〜江戸期 

島津の軍事力を豊臣秀吉徳川家康が警戒していたのは有名な話で、特に秀吉が加藤清正に熊本城を築かせたのは、島津を食い止めるため、というのはご存知かもしれません。司馬遼太郎さんの言葉を引用するなれば、「〜中略〜それほどに堅牢な要塞(熊本城)を清正に築かせたのは、豊臣政権の戦略的な必要からであった。薩摩の島津おさえのためである。〜中略〜薩摩の島津氏は戦国末期には全九州を席巻する勢いを示したが、豊臣政権の成立とともに、もとの薩摩・大隅・日向の三洲に押し込められた。そのエネルギーが再び噴出した場合、熊本城をもって巨きな石蓋として押さえ込んでしまうというのが、秀吉の大戦略であった。徳川氏もそれを踏襲した。ところがはるかに降って明治政府がそのエネルギー(西南戦争)をもろにかぶってしまった。」(陸奥のみち、肥薩のみち、からの引用)

 

明治期 郷中教育について

西郷隆盛大久保利通川路利良西郷従道東郷平八郎...と薩摩の偉人が日本史に与えた影響は計り知れませんが、今回はその彼らの基礎をつくった郷中教育というものを書きます。郷中教育とは、若者が大人から教育を受けるのではなく、同輩中の先輩から負けるな、弱いものをいじめるな、嘘をつくな、と教わります。男児としての素養を身につけるのです。そしてその仲間たちから慕われたものが大将として郷中の若者を統率します。薩摩の面白いところは、学問はほどほどでいい、という考え方があったことです。学問ばかり培ったところで頭でっかちになって、結局は行動できないようじゃダメだ。というのが根本思想で、ある意味当時の侍としてはそれが適切な教育だったのではないでしょうか。結局大隈重信がいた佐賀藩は学問ばかりさせた上に、丸暗記教育を敷いたことで、幕末の波に乗り遅れてしまいました。

 

いつか西郷南州遺訓も記事としてまとめられるくらいになりたいですね

 

<備考>民衆、国内の感情的エネルギーについて

最近歴史を学ぶ上で、民衆のエネルギーというものが世の中を動かすことを知りました。例えば、上記にある西南戦争の話もそうですし、古典古代的生産様式(ローマ帝国など)の下では、土地の所有化が実力主義になり、市民の格差が広がっていきました。貧しいものは不満というエネルギーを外征に向かわせ土地を得るようになります。つまり戦争です。また、革命が起こったのちの余波もそうで、国内の革命を終えた後、そのエネルギーが国内で爆発しないように外征するのです。日本で言えば征韓論などがそうで(台湾出兵で発散)、中国の歴史ではその例が数多くあります。第二次世界大戦直前の日本も貧困による格差で国内革命か対外出兵かというエネルギーがあったと言います。民衆の力は侮れないですね。

 

歴史に残した役割の部分が知識不足であまりかけていませんが、今日はこれくらいにしょうと思います。

日米戦争はなぜ勃発したか 〜貧困視点〜

『日米戦争はなぜ勃発したか メシの問題からみた昭和史と現代日本』

                            著者 高橋秀之

この本は日本がアメリカとの戦争につき進んだ原因の一つとして、食料不足と人口問題に焦点を当てています。その中でマルサス人口論マルクス社会主義思想、トンプソン博士の日本人口調査資料、北一輝日本改造法案大綱を交互に引用しながら分析しています。

 

結論は、人口急増と貧困が日本人にリアリティー認識能力を喪失させ、狂気となってアメリカと戦争をした、という主張です。

今回は要点と面白かった視点をこの記事に書いていこうと思います。

<当時の日本の情勢>

要点1)人口問題

日本は近代化以後、急激な人口増加に悩まされます。具体的には1868年は3400万人の人口が1940年には7000万人に増加し、さらに地主に隷属する小作人は388万戸で2400万人に上りました。つまり当時の日本は3割以上が小作人でした。そして小作人が地主に納める小作率は現物納で5割と高騰しており、連続する恐慌も加わって貧困が問題となっていました。

 

要点2)食糧不足問題

日本本土は山林地が多く、耕作面積は国土全体の15.5%と少なかった。当時(1930年代)食糧自給率は、この本によると8割で2割が食料不足で1千数百万人程度が食料不足でした。(ただ2割足りないだけで、その分が餓死するわけでなく、平均のカロリーを下げれば皆生存できる。と吉田茂回想10年に記載されています)そのため、日本は朝鮮と台湾からいわゆる移入米を輸入し、これら植民地で不足している穀物満州の粟を輸入させることで食料をギリギリ補うようになります。矢内原忠雄は「マルサスと現代」において「わが国農村窮乏の根本的原因は農村における絶対的人口過剰であり、その人口が都市商工業に向かったが、供給過剰で吸収しきれなかった」その結果、労働供給量増加により賃金が低く、賃金が低くてはまともに食料も買えないのが現状だったようです。

 

要点3)各国との貿易問題

当時の貿易体制と今の貿易体制はまったく異なります。WTOなど自由貿易体制が発足していない上に、1930年代は世界恐慌の影響でブロック経済圏、保護関税が当然のことで食糧、原料ともに輸入するのは実際困難だったようです。

 

要点4)これらを踏まえて、日本に残された道。

当時は、食料は自国領土で生産するものと考えられていました。現在では工業製品を作り外貨を稼ぎその外貨で食料を買えばいいのですが、上記の通り世界は保護貿易体制で当時の日本は輸入も輸出もままならない。さらに人口急増で彼らを養えるくらいの工業を起こしたい、つまり工業製品輸出で外貨を稼ぎたいがそのための資源がない。ならば資源のある土地を得るべく膨張していくしかない。このように人口→工業→資源→土地というように人口と土地需要が結びつきました。つまり工業立国ができない以上植民地を必要としたのです。

 

<面白かった視点>

・人口革命:近代化をむかえると人口が急増すること。なぜなら、近代科学によって医療が発達し、死亡率が低下するからです。ただ出生率は低下しないので人口は増えていくというわけです。(この本の筆者は日本の場合はそうではなく、江戸時代の結婚に対する制約が解除されたからとしています)

 

・若年層の割合と革命:これはサミュル・ハンチントン著の「文明の衝突」からの引用ですが、人口が増大して若年層が増えた時と社会の革命や変動が重なり合う傾向が強いことを指摘しています。例えばフランス革命ロシア革命明治維新などがそうです。この本では二・二六事件とも因果関係があると指摘しています。

 

・他国の人口増加への対処:普通は増えた人口が外に出れば問題はありません。例えばイギリスの場合、北アメリカ大陸という新天地があり、広大な大地の中、耕作民需要は衰えなかったため高給でした。しかし日本はアメリカから日系移民の禁止などが発令され、満州への移民も考えられたが困難でした。

 

・ドイツがWW2へ向かう原因:ケインズはブロックドルフ=ランツァウ伯が提出したドイツ経済委員会の報告書を引用して「ドイツは農業国から工業国に姿を変えた。農業国として留まっていたあいだは、ドイツは4000万人の住民を養うことが可能だった。工業国としてもドイツは6700万人の人口に生存手段を描けたが、食料輸入が増えた。しかし敗戦でドイツは原料輸入と多額の賠償金、工業の破滅を経験し、彼らは飢餓に苦しんだ。人口革命と飢餓の連鎖が第二次世界大戦へと向かせた。」

 

 

総括

もうどうにでもなれ、と言う気持ちが国民の間で蔓延していたのかもしれない。そこに昭和陸軍の構想、アメリカの対日政策、そして人口問題から来る貧困が日本人の精神構造を理性から切り離し、第二次世界大戦へと向かわせたのか。また新たな視点を得ることができた。

 

次回の記事は川田稔さんの著書である『昭和陸軍全史1,2,3』を書こうと思います。

武士の起源とは

       『武士の起源とは』

f:id:As_J:20170209144725p:plainf:id:As_J:20170209144654p:plainf:id:As_J:20170209144735p:plain    真田信繁          徳川家康          武田信玄

司馬遼太郎さんの著書「この国のかたち」では武士の起源に関する記述があります。武士は海外でもSAMURAIとして有名ですし、私たちは日本を語るときに必ずと言っていいほど武士道を持ち出します。ただ武士が何故、そしてどのように現れたかという経緯を知っている人は少ないかもしれません。

 

今回は司馬遼太郎さん著書の「この国のかたち」に記述されていた内容に、自らのフィルターを加えて武士の起源を書いていこうと思います。

武士の起源には、1)法整備2)経済的インセンティブが大きく関わっています。

 

1)法整備という面

大化の改新(645年)以降、公地公民制が奈良時代まで敷かれました。公地公民制とはご存知の通り、全ての土地と人民は天皇に属するというもので、大雑把に言ってしまえば社会主義経済と言えます。

その後、朝廷は財政収入を増加させるため(増加させねばならなくなった理由は経済的インセンティブの方で記述します)に墾田永年私財法(743)を制定します。墾田永年私財法とは、これもご存知の通り、自身で開墾した土地に関して所有権を認めるというものです。そして寄進地荘園という公家や皇族に収入を収めることで土地の所有権を確保する動きが出てきました。(何故寄進しなければならなかったのかも、経済的インセンティブの方で記述します)

 

2)経済的インセンティブという面

公地公民制という擬似社会主義制度のもとでは、人は田畑を開墾して豊かになろうとしても、知的財産権が確立していないため、土地を朝廷の権力によって没収される危険性があります。このため、人々は経済活動を停止するインセンティブをもちます。よって当然朝廷の収入は低下していきます。ソ連の失敗と変わりません。その後収入増加のために墾田永年私財法によって所有権が認められると、人々は開墾に励むことになります。開墾すれば豊かになれるからです。その中で、坂東、つまり今の関東地方は肥沃な上に未開墾の土地が多く存在しました。坂東の地に人を惹きつける棟梁の器のあるものが現地で指揮をとり、それが組織化していきます。そして得た財産が他の勢力に略奪されないよう、武装化していきます。これが武士の起源です。ただ、当時の朝廷は信用がなく、いつ所有権を撤廃するかわかりません。所有権をより確実に確保するために公家や皇族に取り入る必要があったのです。(寄進地荘園)

 

その後

彼ら武士が朝廷の権力争いに不可欠な武力となり、最終的には農民政権とも言える鎌倉幕府が成立しました。そして武士は日本史において大きな役割を持つ階級になっていくのです。司馬遼太郎さん曰く、農民政権ができたあたりから、日本史は東アジア史と方向を異にしていくことになったそうです。

 

誰もが歴史の教科書で習った用語も、このような観点で見ると学ぶことがまったく苦にはならないと思います。私はそうでした。何故、その制度をやったのか、それが歴史の連続性にどう影響しているのか、という観点が教科書には不足しているからだと思います。

 

日本人の精神を形作る武士道。それを形成していった武士の起源、いかがだったでしょうか。

自己紹介

初めまして。

惟新斎と言います。現在東京の某大学に在学しています。

趣味は歴史に関する読書と、水泳、色んな人と飲みに行くことです。

<このブログの理念>

人は世代を越えるごとに成長できるはずだ。これが私の掲げる信念です。そのためには過去を知り、教訓を得ることが不可欠だと思います。それには読書や人と話すことで知識を見識に、そして何より実際に行動し見識を胆識へ落しこんでいかねばなりません。結果、未来を予測できるようになり、二度と同じ過ちを繰り返さず生き抜くことができる。先の世代を越えることができる。このような考えのもと、このブログを自身のoutput、発信の場として知識を深める1歩とし、そしてより多くの人にも歴史の教訓を自分なりに発信してみたいと思い至りました。

まだまだ若造で記事を書く過程で歴史認識や思想、主張などが変化するかもしれませんが、ご容赦願います。

<最後に>

好きな言葉で自己紹介を終えたいと思います。

「僕たちは当たり前だと思っている。思い立てば地球の裏側に行けることを。いつでも思いを伝える事ができることを。平凡だが満ち足りた日々が続くであろうことを。けれど、それらはすべて与えられたものだ。誰もが歴史の中で戦い、もがき苦しみ、命を落とし、生き抜き、勝ち取ってきた結晶だ。だから僕たちはさらなる光を与えなければならない。僕たちのこの手で。」(-仁-完結編から引用)