歴史の国、薩摩
先日薩摩へ一人旅してきました。
薩摩で出会った人や経験を伝える為、そして忘れない為にこの記事を書こうと思います。薩摩に関する記事はいくつかに分け、今回は歴史、次回は薩摩人に焦点を当てます。
では、<島津氏の起源>と<薩摩の国が歴史に残した役割>に関する考察です。
<島津氏の起源>
島津氏の領地は最初に平季基が開墾し藤原頼道に寄進した島津荘が基となっています。(寄進地荘園)島津氏はもともと源頼朝に仕える坂東武士で、頼朝によって現在の薩摩の地を与えられ、以降委任統治を進めていきました。しかし元寇という外圧に対処するため、島津氏自身が現地の薩摩を統治したのが島津氏発展の起源です。戦国時代になり、島津の宗家と分家が相争うようになりました。そんな中、島津忠良(日新斎)が頭角を現し、島津家を統一。貴久の時代には所領を大隅に広げ、義久、義弘の時代には日向はもちろん、九州を席巻するようになりました。
簡潔にまとめると薩摩土台はこのように形成されていったようです。
<薩摩の歴史に対する影響力>
ここでは主に司馬遼太郎さん著の「この国のかたち」を引用しつつ、自分なりに考えてみます。(ほぼ司馬さんの知識からきますが…)
戦国〜江戸期
島津の軍事力を豊臣秀吉、徳川家康が警戒していたのは有名な話で、特に秀吉が加藤清正に熊本城を築かせたのは、島津を食い止めるため、というのはご存知かもしれません。司馬遼太郎さんの言葉を引用するなれば、「〜中略〜それほどに堅牢な要塞(熊本城)を清正に築かせたのは、豊臣政権の戦略的な必要からであった。薩摩の島津おさえのためである。〜中略〜薩摩の島津氏は戦国末期には全九州を席巻する勢いを示したが、豊臣政権の成立とともに、もとの薩摩・大隅・日向の三洲に押し込められた。そのエネルギーが再び噴出した場合、熊本城をもって巨きな石蓋として押さえ込んでしまうというのが、秀吉の大戦略であった。徳川氏もそれを踏襲した。ところがはるかに降って明治政府がそのエネルギー(西南戦争)をもろにかぶってしまった。」(陸奥のみち、肥薩のみち、からの引用)
明治期 郷中教育について
西郷隆盛、大久保利通、川路利良、西郷従道、東郷平八郎...と薩摩の偉人が日本史に与えた影響は計り知れませんが、今回はその彼らの基礎をつくった郷中教育というものを書きます。郷中教育とは、若者が大人から教育を受けるのではなく、同輩中の先輩から負けるな、弱いものをいじめるな、嘘をつくな、と教わります。男児としての素養を身につけるのです。そしてその仲間たちから慕われたものが大将として郷中の若者を統率します。薩摩の面白いところは、学問はほどほどでいい、という考え方があったことです。学問ばかり培ったところで頭でっかちになって、結局は行動できないようじゃダメだ。というのが根本思想で、ある意味当時の侍としてはそれが適切な教育だったのではないでしょうか。結局大隈重信がいた佐賀藩は学問ばかりさせた上に、丸暗記教育を敷いたことで、幕末の波に乗り遅れてしまいました。
いつか西郷南州遺訓も記事としてまとめられるくらいになりたいですね
<備考>民衆、国内の感情的エネルギーについて
最近歴史を学ぶ上で、民衆のエネルギーというものが世の中を動かすことを知りました。例えば、上記にある西南戦争の話もそうですし、古典古代的生産様式(ローマ帝国など)の下では、土地の所有化が実力主義になり、市民の格差が広がっていきました。貧しいものは不満というエネルギーを外征に向かわせ土地を得るようになります。つまり戦争です。また、革命が起こったのちの余波もそうで、国内の革命を終えた後、そのエネルギーが国内で爆発しないように外征するのです。日本で言えば征韓論などがそうで(台湾出兵で発散)、中国の歴史ではその例が数多くあります。第二次世界大戦直前の日本も貧困による格差で国内革命か対外出兵かというエネルギーがあったと言います。民衆の力は侮れないですね。
歴史に残した役割の部分が知識不足であまりかけていませんが、今日はこれくらいにしょうと思います。